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松山陣屋跡
松山陣屋跡
前橋藩が領地管理のために設置したのが松山陣屋です。
寛延2年(1749年)、前橋藩の居城である前橋城(現在の群馬県前橋市)が利根川の度重なる氾濫によって破壊が進み、ついに本丸が崩壊する危機にさらされてしまいます。前橋藩主・松平朝矩は再建を目指しますが、財政難で対応ができず、明和4年(1767年)、再建を諦めて居城・藩庁を川越に移します。
それから100年後の慶応3年(1867年)、前橋領内で前橋城の再建と藩主の前橋復帰を求める強い要望が出ると、藩主・松平直克は、前橋城の再建と帰城を幕府に願い出て前橋藩が再立藩します。こうして藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ってしまいました。これを管理するために、慶応3年(1867年)、前橋藩松山陣屋が置かれます。
松山陣屋は、現在の松葉町1丁目のほぼ全域に渡る大規模なもので、南北が丸広デパート付近から市役所の北端まで、東西が市役所の東端から松山第一小学校の正門付近までありました。当時は幕末の動乱期で、役所や御殿など主要な施設を守るため、土塁や城塀の外側に堀がめぐる堅牢なつくりとなっていました。
国内でも有数の規模であった松山陣屋ですが、明治4年(1871年)の廃藩置県により、わずか4年でその役割を終えることになります。
松山陣屋跡(記念碑と解説板)
所在地
松葉町1-1-58ほか
指定年月日
昭和36年(1961年)3月8日(東松山市指定文化財-史跡)